栗本鋤雲 (くりもと じょうん)
1822年(文政5年)―1897年(明治30年) 
享年76歳。

北海道最初の病院、市立函館病院の前身となる箱館医学所を創設 
幕末には外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任し、明治以降はジャーナリストとして活躍。

 

第11代将軍徳川家斉の時代、文政5年(1822年)に江戸幕府の医官をしていた父・喜多村槐園の三男として江戸小川町裏猿楽町(現・千代田区山猿楽町)に生まれました。
天保11年(1840年)、8歳の春に有名な儒学者のもとで学問をはじめますが、体が弱く何度も吐血を繰り返します。身を案じる父に「まずは自分の健康回復のためにも、儒学より先に薬草の勉強をしたい」と申し出ます。日本一といわれる薬草学の権威、岩崎潅園(かんえん)について勉強しました。そうして17歳の時には病状が回復し、翌年には幕府の学問所で東大の前身となる昌平坂学問所に入学します。ただ一人褒賞をもらうほどの成績を収めますが、三年後にまたしても病が再発し退学せざるを得なくなります。
最後の授業の日に、教授が「体調の良い時だけで良いので私の私塾に来ないか」と誘います。教授は才能をこのまま置いておくには惜しい。立派な医者に育ててやると言います。こうして道は開かれ、24歳の時に昌平坂学問所の近くに私塾を開きました。これが大きな話題となり、江戸中に広まることになりました。

嘉永元年(1848年)、鋤雲は26歳で幕府奥詰医師であった栗本瑞見の養子となり、栗本姓を継いで六世瑞見を名乗ります。
奥詰医師とは、将軍家を中心に医療行為を行う幕府お抱えの医師のことです。奥詰医師に昇格した鋤雲はさらにその優秀さを讃えられ、幕府から褒賞を受けるなど、日本屈指の医師として輝かしいスタートを切りました。

ところが、35歳の時でした。長崎の海軍伝習所で練習船に使われていたオランダの「観光丸」に乗船を出願し、生まれて初めて外国船に足を踏み入れます。
この出来事が大問題になりました。西洋医学を学ぶことを禁じられている幕府の医師が、西洋の船に乗るとは言語道断と奥詰医師の職を解かれ、江戸城から追放されます。謹慎生活1年を経て、下されたのは蝦夷勤務でした。

安政5年(1858年)2月、36歳の時に一家をあげて蝦夷地に移りました。
妻が左遷と嘆いた箱館行きは明治維新まで後10年のころです。これが結果的に、人生の一大転機となります。封建制度の強い江戸から抜け出したことが、鋤雲の沈んだ心を明るく伸び伸びとさせます。
蝦夷には本州には見られない薬草が豊富にあり、幕府に献上したところ、将軍が使う薬草に指定されます。調査した結果、七重村(現・七飯町)が、気候も地質も良いことが分かり、ここに薬園を開き、「七重薬園」と名付けました。逆に蝦夷に少ない松や杉の苗木を植え、五稜郭周辺の道路、湯の川街道や七重街道にも植樹しました。
現在ある函館の地名、杉並町、松陰町は鋤雲の植樹に由来したものです。更に、七飯薬園や付近の産物輸送のために七飯から箱館に向けて利根別川を開削し水運を作りました。

箱館に来て一年後に、箱館の医師を団結させ病院創設の計画を立てました。
「医師を目指す人々のために医術の講義を行い、講義料をとり積み立て百両に達したら医学所を建てよう」といいます。医師たちは感銘し貯蓄を始めましたが、翌年になってロシア領事館が病院を建てて市民の診療を行うことがわかりました。「誠に有難いことだが、日本の発展のためには日本人の手で行わなければ」と、その年の冬に寄付を呼び掛けて上棟式を上げました。
ところが余りにも急いだため、上棟式の夜、建物が風雪にあおられて倒れ、資材もろとも使い物にならなくなりました。

「もはや頼れる者もなく、資金もない」そこで鋤雲が目を付けたのが箱館の遊廓でした。
「彼女たちは結核にかかつたり、時には性病に侵されたりするでしょう。そこで医学所が建てられたあかつきには、彼女たちの定期健診と無料診療を保障します。それに遊廓は特異な店で、中々世間に認められません。しかし、その主が医療所へ献金したとなれば評価も上がることでしょう」と談判し、遊郭から2千両を借り受け、念願の医学所を建てました。建坪600坪、これまでにない大規模な病院は「箱館医学所」と名付けられました。これが今日の函館病院の前身になります。

 

こうした数々の事業が幕府の耳に届き、医師から士族の籍に改められ、箱館奉行組頭に任じられました。鋤雲は、樺太、南千島の探検を命じられ一年をかけて巡視し「ロシアとの外交関係を論じた建議書」を提出します。

文久3年(1863年)10月、江戸へ召し帰されました。43歳の時で、5年の間に大きく蝦夷地に大きな足跡を残しました。鋤雲は、昌平坂学問所の頭取を命じられ、外国奉行に取り立てられます。

これは箱館滞在中、フランス領事のカションと互いの母国語を教えあったことで親交を深めた功績がありました。
慶応3年(1867年)、日仏親善大使としてパリに派遣されます。

左の写真は、パリで渋沢栄一は栗本鋤雲と会います。

パリ滞在中に大政奉還と江戸幕府が滅亡となり、新政府から政府士官を要請されますが、「私は医師として、武士として、幕府に仕えた人間です。何があろうと生涯その恩義を裏切ることはできません」「二君に仕えず」の名言を残し、表舞台から消えました。

明治5年、ジャーナリストとして再び世に出ます。毎日新聞社を経て翌6年、51歳の時に報知新聞社に招かれ、主筆を務めることになりました。64歳で退職するまで健筆を奮います。

島崎藤村の「夜明け前」に登場する喜田村瑞見のモデルともなりました。明治30年3月6日、本所の自宅で76歳の生涯を終えました。